大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪高等裁判所 昭和32年(う)765号 判決

被告人 坂井穎子 外一名

主文

被告人坂井穎子及び検察官の被告人今井久能に対する本件控訴はいずれもこれを棄却する。

原判決中被告人坂井穎子に関する部分を破棄する。

被告人坂井穎子を懲役一〇年に処する。

原審における未決勾留日数中九〇〇日を右本刑に算入する。

理由

検察官の控訴趣意甲(被告人今井久能に対する事実誤認)について、

本件において原判示のとおり、被告人坂井穎子(以下単に穎子と称する)が坂勝見を殺害したことは動かせない事実である穎子が坂を殺害したのは、同女と恋愛関係にあつた被告人今井久能(以下単に久能と称する)が、昭和二九年五月二二日の昼、姫路市高尾町六二七番地先路上で穎子に対し「何もかも言うてあると思つて来たのに、お前は何もしていない。おれの方はもう結婚できるてはずになつた。明日坂と一諸に大阪へ行くならば、はつきり話をつけよ。坂に対して愛情がないなら何でもできるやないか。話がつかなかつたら前に言つたように青酸カリもあることや。今日青酸カリを持ち出せ。今晩もう一度会おう」と暗に坂を殺害するように教示し、同夜更に同市飾磨区通称亀山御坊付近路上で「青酸カリをウイスキーに混ぜるのが一番いいのや、殺したら荷物はわからんように持つて帰れ、何なら明日行つてやろうか」等と言い、ウイスキーの小びんを示して同女に対し、坂を殺害する方法を教示したことによるのであり、久能は殺人教唆の罪を犯したものであるとする公訴事実に対し、原審は本件において久能の黒白を決するには、穎子の供述がほとんど唯一の資料となつており、その信用性を究めることが重要であるとし、被告人らが本件殺人事件発生前最後に会つたのが、久能の主張するように昭和二九年五月二一日(金曜)の昼であつたか、穎子の主張するように同月二二日(土曜)の昼と夜であつたかによつて、穎子の供述に対する心証を異にするとの見地から、その点に関する証拠について細密な検討を試みた結果、両被告人が右二一日か二二日のいずれかの昼過ぎに前記高尾町六二七番地付近路上で会つて数分間会話したことが認められるが、その日が両者いずれであつたかは断定し難く、又二二日夜両名が会つていないという結論は右認定から出て来ないけれども、穎子の供述は度々変遷し細部の点において前後にくい違いがあり、久能の供述と対比してみると疑問の点があつて信用性が乏しく、久能の教唆の可能性は心理学的にも、事実上においてもさほど強いものではなかつたことが認められるに対し、穎子の性格、坂をめぐる穎子と久能の恋愛関係と当時の諸状況からみて、穎子の単独犯行の可能性も考えられないことはないと判断し、結局久能の教唆を証明する証拠が十分でないとの理由によつて、久能に対し無罪の言渡をしたことは所論のとおりである。これに対し所論は要するに穎子の供述は十分信用性があり、その内容は真実性を持つものであつて、それによつて久能の教唆が認められるのに、原判決がこれを認めなかつたのは誤りであるというに帰着する。

久能に対する本案件においては、穎子の供述の信用性の有無が判定を左右するかぎとなつていることは原判示のとおりである。記録によると、穎子は司法警察員に対し前後一〇回、検察官に対し前後一一回の供述をし、司法警察員に対する第二回供述調書以後事件の内容について供述をしている。又穎子は原審公判廷において証人として又被告人本人として供述をし、検察官に対し長文の手記を提出し、その手記が記録に綴られてあり、それらの内容はいずれも細部の点について多少の相異なるところがあるけれども、前記司法警察員(変遷を経た後の供述)及び検察官に対する各供述調書の内容と趣旨を同じくするものである。又穎子は当審において証人として又被告人本人として供述をしているが、その趣旨は、五月二二日昼会社事務所の金庫の下から青酸カリを持ち出し、オブラートを買い、翌二三日それらを大阪へ携えて行つたのは、久能がこわかつたので同人の意にそうためであつて、坂を殺害する意図によるのではなかつた、オリオンホテルで坂に右青酸カリを飲ませたのは同人に肉体関係を求められた際自己の貞操を守るためとつさに考えついたことによると述べる外は、大要を原審の供述と同じくするものである。

そこで次に穎子の司法警察員及び検察官に対する供述について要点を掲げながら検討をする。

(一)司法警察員に対する昭和二九年五月二五日付第二回供述調書において穎子は、同月二一日坂から二人でどこかへ遊びに行きたいから、二三日午前七時に国鉄姫路駅へ来てほしいというはがきが来て母も承知し、二二日午後五時半頃から母に連れられて姫路市内で服を買つてもらい帰宅すると坂が来ており、大阪へ行こうと約束し、翌朝七時一四分発で大阪へ行き、汽車の中で坂は大劇へ行こうと言い、オリオンホテルへ入つてから二人とも寝巻に着かえ、坂が小さいびんからウイスキーをラツパ飲みしていたが、私にキツスしそのまま私をベツトへ押しつけて「僕はもう結婚できないのだから言うことをきいてくれ」と言つて、私の上に乗りかゝつて来て、抵抗したが関係をつけられてしまい、終つてから「おれには子供があるのだから君と結婚したら子供を引き取つてくれないか」と言うので、家の者と相談しなければ返事はできない、女と会わしてくれと言うと、坂は「そんなことはできない、お前はもうおれのものになつた、おれはもう家へは帰らない、お前も帰さない、おれも死ぬからお前も死んでくれ」と言つて、何か私の口の中へ押し込もうとしたので、私は夢中でそれを払いのけると、坂は「そんなにおれの言うことを聞かんならいゝわい」とどなり、私を離して横になり、うつむいたままの姿勢で口の中へ何かほうり込んだと思つたら、大きなうめき声を出した。私はこわくなつて寝台から飛び降りて洋服に着かえ、便所に行つてから階下へ降り、女中に靴を出してもらつて表へ出たが、荷物が残してあるのに気付き、私が殺したように思われることが心配になり、身元をわからなくするために荷物を持ち去ろうとして部屋にもどり、あたりの物をボストンバツクに入れ、坂の靴を女中から出してもらつてネームをむしり取つて女中に返し、荷物を持つて地下鉄で大阪駅に出て、汽車で姫路駅に着いて帰宅した。姫路駅で下車する時ボストンバツクを網だなの上に忘れたという趣旨の供述をし、

(二)同第三回(同月二六日付)供述調書によると穎子は取調官の膝に伏せ鳴咽しながら前回はうそを言つて申し訳がない。これからほんとうのことを申し述べると前置きをして、実は自分が坂に青酸カリを飲まして同人を殺したのである旨を供述し、興奮の余り取調べが中絶されたことがあつたが、その供述の大要は次のとおりである。『坂と婚約する一年位前から、久能と関係をし結婚の約束をした。坂とは一度も関係はなかつた。ある日私と久能と喫茶店にいるところへ坂がはいつてきたので、喫茶店を出て私は坂に対し今井とのことを話すと、坂がおこつたので、あなたも好きな人があるやないのと言つたら、坂はそんなものはないと言うので、里子さんという人は誰や、「さとる」さんという子は誰の子やと言うと、坂はどうしてそんなことを知つているのやと聞くので、私はあなたの鞄の中から里子さん宛の手紙を取り上げたと言つてやつたら、坂は隠し切れず、隠してすまん、今はもう交際していない、あなたが一番好きや、他の男との手を切つてくれと言つた。それから後に久能に会つたとき、久能は僕はどんなことがあつてもあなたと結婚する、坂に愛情がないなら思い切つてことわつてくれ、どうしても坂と結婚するなら、僕は死んでしまうと言うので、私はあなたが死ぬなら私も死ぬ、どうして死んだら一番いゝのと聞くと、久能は青酸カリを飲んだら直ぐ死ぬ、飲む前にウイスキーを飲んだらよい、あなたの会社にあるだろうと言つた。私は大分前から、会社の事務所の金庫の台の下に青酸カリ入りのびんがあることを知つていたので、久能と心中するつもりで五月中旬びんの中からかたまり二個をとり出し会社の封筒に入れて持つて帰り、家の本箱の引出しの中に入れておいたのを大阪へ持つて行き、ホテルで寝巻に着かえ、ホテルに行く途中で買つたすしを食べ、坂は心斎橋筋で私が旅館へ行つて飲みなさいといつて買つてやつたウイスキーを飲んでから、寝台で坂が関係しようとしたので、私は「ちよつて待つて、結婚前に子供ができたらいややからこの薬を飲んで下さい」と持つて行つた青酸カリを渡した。(この時穎子は取調官にすがりつき号泣して)私は坂さんを殺したのです。坂さん許して、お父さんお母さん許して………久能の馬鹿……』。ところで右供述中の坂に悟という子供まである里子という女性があるという事実については、穎子がそのことを知つたのは後の供述によると、坂を殺害してその夜自宅に帰り、ホテルから持つて帰つた坂の背広のポケツトに入れてあつた坂の里子宛の手紙を見た時であり、その事実を穎子が事前に知つていたら坂殺害の悲劇は起らなかつたことは確かであり、後の供述が真実であると認められるのに、右供述においては五月二三日以前に坂に対しそのことを詰問したとなつており、又穎子が会社の事務室から青酸カリを持ち出したのは後の供述によると五月二二日の午後であつて、翌二三日坂と大阪市内へ同行した際に機会をとらえて坂に服用させる意図によるのであり、前後の推移からみて後の供述が真実であると考えられるのに、右供述では五月中頃久能と心中するつもりで持ち出したとなつており、取調官にすがりついて泣き、ほんとうのことを述べると言いながらしたその供述内容は虚実取り混ぜてあることが認められる。

(三)同第三回(同月二八日付)供述調書によると、穎子は更に今までうそばかり申してすまないと前置きして、坂を殺害したのは、久能の言による旨を供述している。その大要は次のとおりである。

『私は前々から久能に坂との婚約を解消するように言われていたのだが、五月二〇日喫茶店で三人顔を合わせ、表へ出てから久能から今日こそそのことを坂に言えと言われて後、坂の自転車の後部に乗せてもらい、坂に対し婚約の解消を求めると、坂は親類も皆知つているし、今更そんなことはできないと相手にせず、うやむやになつてしまつた。五月二二日の午前一〇時過ぎ頃久能から昼休み(正午から〇時四五分まで)にいつもの所で会いたいという電話がかかり、昼休みに弁当をひろげただけで食べずに約束の場所へ行くと久能は先に来ていて、坂に言つたかと聞いたが、私はまだ話してないとうそを言つた。すると久能は顔色を変えて「いつまで何をぐずぐずしているのや、おれの方二〇日に本家の法事に行つて親類の人にお前とのことを承諾してもらつて、お前の写真を持つてはつけを見てもらつて来たのに、どうするのや、おれは責任を果したからお前も責任を果せ」と興奮し「死ぬつもりなら何でもできるのや」とどなり、私が「子供ができたときもう少し責任ある話をしてくれさえすればこのようなことにはならなかつたやないの、あなたが無責任だつたから親が坂さんと婚約をしてしまつたんや、明日坂さんと遊びに行つた時キツパリ言います」と言うと、久能は「もし解決できなかつたらこの前話したように青酸カリを飲んだら直ぐや」と言うので、私は坂さんに青酸カリを飲まして殺してしまえというように解釈した。この前話したようにというのは、五月七、八日頃久能と姫路城へ遊びに行つたとき、なかなか思うように二人が結婚できないが、死ぬ気ならどんなことでもできる、いつぺん死んで生き返る薬はないものか、そしたら許してくれるなどと話し、久能が「ウイスキーを飲んでから青酸カリを飲んだら直ぐ死んでしまう、会社に青酸カリがあるやろう」と言つたことを指すので、私は久能にそのように言われ、坂との婚約解消の話はそう簡単にはつけられないと思つたので、会社にある青酸カリを持つて明日坂さんと遊びに行つた際、機会をとらえて飲ませ、いつぺんに片付けようと決心し、久能さんに明日なんとか話をつけてくると言つて走つて会社へ帰り、他の人のわからないように、事務所の金庫の台の下から青酸カリのかたまりを二個取り出し、オブラートに包んでお菓子やと言つて坂に渡そうと思い、会社の自転車で薬局へ行きオブラート二箱を買い、家へ持つて帰り、翌日大阪へ持つて行きホテルで坂さんに飲ました。翌二四日会社へ出勤していると、朝一〇時頃久能から「何か変つたことはないか」と電話がかかつてきた。久能からそんな電話がかゝつてきたことはそれまでになかつたので、土曜日(二二日)に久能が青酸カリを飲んだら直ぐやと言つたのは、やつぱりそれで坂を殺してしまえということだつたのだと思つた。昼休みにいつもの所で久能に会うと、久能が「顔色がわるい、どうした」と言うので、私は「何もかも聞かないで」と言うと「どんな力にもなるから何でも言つてくれ」と言い、私が新聞を見たかと聞くと、久能は何新聞かと聞いた。私は会社で毎日か産経かを見ると、中味は読まないが「ホテルのベツトに死体」という大きな見出しがのつており、それは坂のことだと思つていたので、久能に毎日か産経かだと答えた上、ホテルで坂に青酸カリを子供のできない薬だといつて飲ましたら死んでしまつたと話すと、久能は驚いた様子もなく「こわい目に会つたなあ、このまゝおいたら警察が騒いでいるだろうからどうせわかる、ほんとうのことを言うと罪になるから、坂が関係をせまつてきたのでことわると、こんな恥をかゝされておれはもう帰れない、言うことをきいてくれなければおれは死ぬから一緒に死んでくれと言つて無理に薬を口に入れようとしたが、抵抗しているうちに坂は自分で飲んで死んでしまつたと言え、すぐ家へ帰つてお母さんに話して一緒に大阪へ行け、どんなことがあつても僕のことを絶対に言うな」と言われたので、(一)の調書のようにうそを述べた。』

(イ)右供述の最後の点を(一)の調書の内容と対比すると、坂から同人に子供のあることまで明らかにされた趣旨の会話が穎子と坂との間にとりかわされたという供述をしており、その会話の内容は穎子が右(三)の調書において久能から教示を受けたとする内容よりはるかに複雑であつて、むしろ穎子自身の創作であるとする疑いが濃い。(ロ)右供述中昼休みに久能と会つて同人から坂に話したかと聞かれてまだ話していないとうそを言つたとの点について、(三)の調書と同日付の久能の司法警察員に対する供述調書を検すると、五月二一日昼休みに穎子に会つて「昨日はどうだつた」と聞くと、穎子は「あれから国道筋まで行き途中で話があるのやけどと言うたら、松下さん(坂のこと、久能は坂の死後初めてその姓が坂であることを知つたと言つている)は、今日何も聞きたくない、いずれ近い中に家に行くから皆の前で聞こう、あなたが僕の誘いの手紙を出しても来てくれないわけがわかつた。何もかも知つている。ともかく自転車に乗りなさいと言つたきりで後は何も話さず自宅まで送られた」と言つたとなつている。この穎子と坂との会話の内容は穎子の前記供述と趣旨を同じくし又穎子は後の調書でも右内容に類似する供述をしており、その内容を久能が他の機会に知つたと認められる資料はなく、従つて穎子が久能に対し「まだ話してない」とうそを言つたという供述に対しては疑が持たれる。

(四)同第五回(同年六月一日付)供述調書では穎子は、坂を殺した原因は何かと問われて、久能と結婚したかつたからと答え、坂との婚約を解消すればよいではないかと問われて、料飲組合にはいつた年の暮にその事務所の二階で坂さんと関係したことがあつたので、坂に婚約の解消を求めると、坂からおれに身を任せて婚約した仲だと言われ、それ以上強く言えなかつたと答え、坂を殺す決意をした動機について話して見よと言われて、五月二二日久能から二〇日の本家の法事の際に兄や親類の承諾を得、今朝から今までお前の写真を持つて易者に行つていた、相性はいゝと言うし責任は果した……等前回の調書と同一のことを述べ、なおその際久能は事務所にある青酸カリを持ち出して来い、今晩会おうと言つたと述べ、更に今日まで警察でうそを言つたことがあれば話して見よとたゞされて、ボストンバツグを姫路駅で下車の際網だなに置き忘れたと言つたのはうそであると述べて、大阪駅ホームで二四、五歳位の女に姫路行きの列車の発着場所を聞き、列車が来たので乗車すると満員でなかつたので四、五番目の席に腰かけ、ボストンバツクはたなに風呂敷はひざに乗せたが進行中宝塚行きを思い立ち、横にかけていた二三、四歳の女に道順を教えてもらい、次の駅でボストンバツクをわざとたなの上に置いたままにして下車し、改札口で四〇歳位の女に教えてもらつて同女と一緒に電車に乗り、西宮北口で乗り換えて宝塚へ行き土産物を買つて宝塚駅に引返し、駅前で四五、六歳位の子供連れの女に聞いて、三の宮まで電車で行き同所から姫路に帰つた等帰途の状況をきわめて詳細に説明しているが、実は穎子はオリオンホテルを出で直ちに自動車で宝塚に行き、同所の写真屋で坂の手提鞄の中にあつた写真機を担保に三〇〇〇円借り受け、坂のシヤツ等を宝塚劇場内の各所の便所の中に捨て、家への土産に菓子を買い、国鉄宝塚駅前の便所へ坂のボストンバツクと手提鞄を捨て、電車で三の宮駅へ出て、同所で汽車に乗りかえ帰宅したことは、司法警察員に対する第七回(同月五日付)調書で詳述しているとおりであつて、この事実に対しては野中栄吉及び中元トミノの各司法巡査に対する供述調書、臼井千代子の司法巡査に対する供述調書並びに司法巡査池浦通の捜査復命書等によつて裏付けられておるのに対比し、前記供述内容が驚くべきほどたくみに虚構され、創作されていることが発見せられ、穎子に虚言癖のあることを見のがすことができないのである。

なお右(四)の調書では、穎子が持ち帰つた坂の背広上衣のポケツトから同人の里子宛の手紙が出てきて、見ると悟という子があることがわかつたので、隣室の母のまくらもとへ行き、その手紙を母に見せたこと、二四日久能と別れてから会社に帰り、早退けして午後二時半頃帰宅して母に話したことが述べられている。

(五)同第六回(同月三日付)供述調書には五月二三日の模様がくわしく述べられているが、この調書では穎子はウイスキーは坂が自分で買つたように述べ、ホテルで坂から情交を迫られ、坂に赤ちやんができると困るからといつて青酸カリ一個を封筒から出し「大きいから二つに割りましようか」と言つて、テーブルの上で湯のみ茶碗の底で二つに割り、その一つづつをオプラートに包み、二包みを渡すと坂はその二つを湯茶で飲んでそのまま苦しそうにうめき声をあげたこと、その後荷物をまとめてホテルを出たこと等を述べ、第七回(同月五日付)供述調書において前記のとおりホテルから自宅へ帰着するまでの状況を精確に供述し、第八回(同月七日付)供述調書においては久能と土曜(五月二二日)に会つたとき、汽車の線路の手前で五、六名の工員らしい人が自分らの方をじろじろ見ていたので姿を隠した。その時は赤地に白の水玉のあるブラウスで紺サージのチヨツキ付きスカートであつた、久能は黒塗のポインターに乗つて、薄茶のジヤンバー、こげ茶のズボンであつたと述べ、第九回(同月九日付)供述調書では二四日の久能と会つたときの会話の内容、帰宅してからのことを述べ、第一〇回(同月一〇日付)供述調書では二三日オリオンホテルへ行くまでのこと等を述べているが特記すべきものはない。

次に穎子の検察官に対する供述の内容は、前記司法警察員に対する供述と重複している部分が多いので、重要の点を指摘するにとどめる。

(六)検察官に対する第一回(同月三日付)供述調書においても、穎子は五月二二日昼久能と会つたときの状況について前記(三)及び(四)に示したと同様の供述をしているが特に摘記すると、久能は「二〇日の法事のとき兄や親類が僕らの結婚のことを承知してくれて、兄が昨夜穎子の写真を持つて行つて易者に二人の結婚について占つてもらい、僕にも行けと言うので、今朝から易者へ行つて来たところだ、相性はいゝと言つていた」と言い、穎子が「朝から今まで何を言うとつたんや」と聞くと、久能は「ぐずぐずいろんなことを易者が言うとつた」と言い「家までちやんとしてもらうことになつたのに、何をぐずぐずしているのや、責任を果せ、三角関係はもういやや」と激しい口調で言い、穎子が三角関係とちがうと言うと、久能は「そんなら愛情をみせてみい、早うなんとかせい、そんな関係を解決せい」と言うので、穎子が明日大阪へ行つて話すると答えると、久能は「きつぱり話して来い。話がつかなんだら前にも話したとおり、青酸カリもあるからどうにもなる。会社に置いてあるか」と言うので、多分あると言うと「ともかく今日それを持ち出して来い、今晩会おう」と言つたので、穎子は会社へ走つて帰つた。久能は殺してしまえとは言わなかつたが、青酸カリを持ち出せ、早く何とかせよというような言葉、更にその場のふん囲気、久能の怒つたような態度から穎子はそういう風に解釈した。久能が「前にも話したとおり」と言つたのは、五月初頃姫山公園でした二人の話の中に青酸カリのことが出て、久能がウイスキーを飲んでから青酸カリを飲むとにがくない、そうすれば直ぐ死ぬと言つたことを指すとい趣旨の供述をしている。

(七)同第二回(同月八日付)供述調書では、穎子は久能との肉体関係によつて妊娠し、同人から必ず結婚するが、今妊娠したことが知れると具合がわるいから子供をおろせと言われて、同人の勧めにより昭和二九年二月一三日姫路市内の婦人科医院で妊娠中絶手術を受け、その数日間は会社に出勤するように装つて家を出て医院の近くの旅館で休憩して夜帰宅したが、久能の兄今井英文が穎子の欠勤を心配して穎子の自宅を訪問したことから、妊娠中絶のことが知れ、勤務先を退職しなければならなくなるとともに、久能の兄や穎子の母から結婚を反対され、同月下旬仲介人を通じて坂から結婚の申込を受け、母が進んで賛成し坂と婚約をするようになつたことについて述べている。

(八)同第三回(同月一〇日付)供述調書中特記すべきものは、五月二一日(金曜)の服装は白ブラウスに紺のチヨツキ付きスカートであつたこと、同日は昼食後応接室で柳川正と従業員用の作業衣を大、中、小と分け午後一時過頃終り、作業衣は同日中に従業員に配給されたこと、従つて同日の昼は外出していないという供述であるが、応接室における右分類作業の開始時間は午後〇時三〇分頃であつたと認められることは後記のとおりである。

(九)同第四回(同月一一日付)供述調書中特記すべきものは、五月二二日会社からの帰途翌日坂と大阪へ行くときの着衣用に母に卵色がかつた白のブラウスを買つてもらつたが、そのとき着ていた赤地のブラウスの上へ、その白のブラウスを着てみたら、襟が赤いので母がおかしい、赤い襟を折るといいと言つたことを覚えている。午後七時頃帰宅すると坂が来ており、同人と一緒に家を出て洋裁に行き、八時四〇分頃早退けしたが、その理由は青酸カリやオブラートを鞄に入れたまま机の上に置き放したので、家族に見付かりはしまいかという心配と、その日買つたブラウスを身体に合わせなくてはならないためであつた。久能が昼「今晩又会おう」と言つたけれど、オブラートや青酸カリを用意して坂に菓子だと言つて食用させようと心に決めていたので、久能に会つてそれ以上方法について相談する必要はなく、坂との婚約は自分が決めたことだし、解消も自分一人で解決せよと久能が言つたし、自分はもともと勝気だから、自分でやり遂げようとする意地を張つた気持だつたので、久能に会う気持はなく、会社から帰宅するときもいつもとはちがつた道を通り、洋裁から帰るときも久能に会つて見たいとは思つたが、会つても久能からとめられるとは全然考えなかつたという供述である。

(一〇)以上のように穎子は本件犯行前久能に会つたのは五月二二日の昼休みのときであつて、その際久能から「今晩又会おう」と言われたが会わなかつたという趣旨のことをくり返し述べておきながら、検察官に対する第七回(同月三〇日付)調書において、ほんとうのことを全部明らかにし久能にもその気になつてもらうことが、事実を秘している久能の心中の苦しみを救う道であり、同人に対する愛情を示すゆえんであるとして、五月二二日夜姫路市内亀山御坊門前で久能と会つたことを初めて明らかにし、その際同人から青酸カリを持ち出したかと聞かれ、持ち出した旨を答え、なお青酸カリをオブラートに包んでお菓子だと言つて坂に渡すつもりだと言うと、久能は「前にも言つたようにウイスキーに混ぜて飲ましたら一番よいのや、荷物なんかみんな持つて来い」と言い、ズボンのポケツトからウイスキーの小びんを取り出して差し出したので穎子はカツとなり「久能のばか、坂さんがそんなに憎いの」と言うなり、そのびんを受け取つて亀山御坊の壁をめがけて投げつけたと供述し、これと同様の供述が検察官に対する第九回供述調書にも記載されている。穎子の検察官に対する前記第七回供述調書以前における供述においてはいずれも五月二二日の昼の久能の言葉によつて、同人が穎子に対し坂を殺せと言つているのであると解釈したという趣旨となつているのに対し、同夜の久能の言葉は前記のとおり坂を殺害せよと明言している趣旨と認められ、右供述は重要なものである。ところが五月二二日昼の久能の言葉についての穎子の供述によれば、その内容はウイスキーを飲んでから青酸カリを飲むとよいとなつており、ウイスキーに青酸カリを混ぜて飲むとよいとはなつていないのに、同夜の久能の言葉についての穎子の供述は、久能が穎子に対し「前にも言つたように青酸カリをウイスキーに混ぜて飲ませるとよい」と言つたとなつており、この点に関する穎子の供述が重大な点でいくいちがつておるのに、その理由が明らかにされていないのみならず、後記のように五月二三日以前の最後の昼に両人が会つたのが同月二二日ではなく同月二一日であると認める外ない以上、久能から今晩又会おうと言われて右五月二二日夜前記亀山御坊門前で同人と会つたという穎子の供述は容易に信用することができない。

(一一)穎子は更に検察官に対する第一〇回(昭和二九年七月二日付)供述調書において、それまで述べた外に五月二四日昼更にもう一度同人と会つたことを供述し、久能と一旦別れて会社へ帰り事務所の金庫の下から前と同量位の青酸カリを取り出して封筒に入れ、便箋に「新聞に出ている事件は私がやつたのです、もうお別れです」と書き、封筒に入れて母の所と名前を書き、青酸カリを鞄に入れ坂の洋服を包んだ風呂敷包みを持つて帰宅の途中久能と偶然会い、同人から手紙と青酸カリと坂の洋服の中にあつた財布等を取り上げられたことを明らかにしているが、その供述の時期内容等から考えて、右供述は前記のとおり穎子にある虚言癖のさせたものとの疑が濃い。

(一二)穎子は前記(三)に摘記したように司法警察員に対し、五月二四日朝久能からの「何か変つたことはないか」という電話により、同月二二日昼の久能の言葉は矢張り坂を殺せという意味だつたと思つたと供述し、検察官に対する第五回供述調書においてもその点について述べ、久能は坂を殺せと言つたのか又は別の意味のことを言つたのかといろいろ考えていたが、右電話により胸がドキドキして何も言えずただ「はあ」と答えた、そして久能は矢張り自分がやつたことを予想していたのではないか、あるいは新聞でみて皆わかつているのではないかと思つたという趣旨の供述をし、穎子の原審に提出した手記にも右電話によつて胸がドキドキした旨が記載されてある。穎子が右各調書における供述の後に検察官に対し明らかにしたように、もし五月二二日夜久能と会つて同人から青酸カリをウイスキーに混ぜて坂に飲ませとの教示を受けたという事実が真実あつたならば、穎子が五月二四日の久能からの右電話によつて胸をドキドキさせるという理由はない。そして右各調書の供述はその内容の複雑さから観て穎子が五月二二日夜の久能との会合をことさら秘するがためになされたものとは容易に考えられない。

なお久能のこの点についての供述は五月二四日朝電話すると、穎子が平素と違つて元気のない声で返事をしたので「今日はえらい元気がない声やな、体がどうかしたか」と聞いたとなつており、この趣旨は穎子の言う「変つたことがないか」と相通ずる趣旨のものであり、穎子の右供述どおりの言葉が久能によつて発せられたとしても、必ずしもそれは穎子が右各調書において供述しているように、久能が穎子の本件犯行を予期していたとか、その内容を予知していたためであつたとは断定し得られないと考えられる。

久能の検察官に対する第五回供述調書によると、五月二四日昼穎子との会合の模様は大体穎子の供述と一致しているが、ただ穎子は前日のオリオンホテル内の状況について、きのう松下さんと大阪へ行き、心斎橋で松下さんがお腹が痛いと言い出し、ホテルへ入つてウイスキーをガブガブ飲み、関係を求めて来たのでことわると「こんな恥をかかされて姫路へ帰れない、お前も一緒に飲め」と言つて薬を出したが、いやだと言うと「えい」と自分で飲んだという趣旨を言つたとなつており、この内容は穎子が司法警察員に対し供述したところと大体において一致し、穎子は後に久能に教えられたとおりの供述をしたと述べているのであるが、穎子の司法警察員に対する右当初の供述は坂の女性や子供のことに及んでいることは前記のとおりであり、又五月二四日昼に久能が穎子に対し警察署に出頭するように勧めたことは、両者の供述の一致するところであり、もし穎子が同月二二日の昼と夜久能から坂殺害の教示を受けこれを実行し、同月二四日の昼久能にこれを明らかにしたという穎子の供述が真実ならば、このことは久能が穎子に対し警察署へ出頭を勧告した事実とまつたく矛盾し合理性が乏しいものといわなければならない。

(一三)穎子が本件犯行前の昼間に最後に久能と会つたのは五月二一日であつたか又は同月二二日であつたかに関する証拠に対する判断については、原判決が詳細に説示しているとおりであるから、こゝで重ねて触れることをさけるが(イ)五月二〇日以後同月二三日以前の昼間に、両名が姫路市内の高尾町六二七番地先で会つたとき、久能が穎子に対し「二〇日の法事のとき兄や親類が二人の結婚を承諾してくれた、昨夜兄が穎子の写真を持つて易者へ行き、僕にも行けと言うので今朝から今まで易者へ行つていた」と言つたという趣旨の供述を穎子は司法警察員及び検察官に対して度々しており、又同様のことが久能の司法警察員に対する昭和二九年六月八日付供述調書(記録一九九一丁以下の分)及び検察官に対する第四回供述調書にも述べられており、久能の五月二一日及び同月二二日両日の午前中の行動については原判決に説示されているとおりであり、同人が易者の川野天詳方へ行つたのは五月二一日の午前中であることは、今井英文、川野天詳、清水周一に対する各証人尋問調書、今井英文の検察官に対する供述調書、押収されている川野天詳作成のメモ(昭和三二年領置第二六五号の八一)清水周一宛内容証明郵便及びその配達証明書(同号の八五及び八六)によつて明らかに認められることであり(ロ)穎子が五月二一日は白ブラウス、同月二二日は赤地に白の細かい水玉のついたプラウスを着用していたことは、穎子の供述並びに穎子の母坂井しめに対する証人尋問調書及び司法巡査に対する昭和二九年六月一〇日付供述調書によつて明らかであり(ハ)原審及び当審における後藤茂及び大川岬男に対する各証人尋問調書によると、同人らが穎子と久能が前記地先で会つているのを、付近の材木置場から見たときには、穎子は白色のブラウスを着用していたことが認められ(二)原審及び当審における相馬みさをの証言並びに押収されている、やまとやしき友の会会員証二通、同会費入金日報、同会費集金票(前同号の八九、九〇、九七及び一〇三)によると、姫路信用金庫の外勤係である同人が、やまとやしき友の会の会費集金のため前記地先を通りかかつたのは、昭和二九年五月二一日であつて、同月二二日ではなかつたことが明らかであり、その際穎子と久能が同所で会つているところを見たという二人の相対している位置が、前記後藤茂らの見たという二人の位置と反対になつていることは原判示のとおりであるが、相馬証人及び後藤証人らが二人を見たのが同時刻であつたという証拠はなく、二人は同地先で会つた瞬間後藤証人らにはやし立てられて場所を移動したことは穎子及び久能の供述の一致するところであり、移動後その対立位置を変えたことは、原審及び当審の検証の際において久能が供述しており、二人の位置は固定していたとは考えられず、従つて相馬証人が見たのは、二人が場所を移動しその対立位置を変えた後であることがうかがわれ、後藤証人らの言うところと異なるからといつて、相馬証言の信用力を排斥すべきではなく、同証言は二人が相対していたという場所及び時刻の点において精確性を欠いているが、それにもかゝわらず当審におけるその供述態度等に照し同証人が右五月二一日に前記地先で二人を見たという同人の証言は十分信用性があるということができる。(ホ)記録に綴られてある姫路測候所長の天候状況調査依頼に対する回答書(記録二二六丁)によれば、昭和二九年五月二一日は午前八時一五分並雨、同二五分から小雨となり、九時四〇分止み、一一時四〇分より断続的の小雨となり、一二時一五分止み、一三時より小雨となつており、又同測候所長の気象照会に対する回答書(記録二三三〇丁及び二三八八丁)によると、同日の雨量は午前九時から一〇時までが〇・二ミリ、一〇時から一一時までは雨なく、一一時から一二時までが〇・〇ミリ、一二時から一三時までが〇・〇ミリとなつており、一方原審における昭和二九年八月二三日の小西巖に対する証人尋問調書によると、同人は千代田金属株式会社に勤務し、右五月二一日の昼休み時間に若い人がキヤツチボールをするのを見ていたとあり、当日の雨は極微量であつたことが認められ、従つて前記後藤茂ら児島鉄工所の工員らが五月二一日は雨天で、昼休みの時間には外出せず、穎子と久能を前記地先で見たのは五月二二日であるとの各証言は思い違いと言う外なく、にわかに採用しがたい。(ヘ)穎子が右五月二一日の昼休み時間中のある時刻から、その勤務する千代田金属株式会社の応接室で同社員柳川正とともに、作業服の仕分けをしたことは原審における柳川正に対する証人尋問調書等によつてうかがわれるが、その開始された時刻は同日の一二時三〇分頃であつて、穎子が同日一二時一五分頃から作業服の仕分けを始めるまでの間数分間、前記地先で久能と会合する時間的余裕はあつたものと考えられることは原判示のとおりであつて、これを否定すべき資料は少しもない。しかも当日の右地先における穎子久能の両名は会つて間もなく両人の間で口論するような会話となり穎子が同所から走り去つたことは、両名の供述によつて明らかにされていることである。以上の諸点を総合すると、穎子が五月二三日の本件犯行前の昼に最後に久能と右地点で会つたのは昭和二九年五月二一日の午前一二時一五分から同三〇分までの間と認めるのを相当とする。(ト)その際久能が穎子に言つた言葉の内容についての久能の供述は警察以来一貫しており、それによると前記(三)の(ロ)に記載した言葉に続いて穎子は久能に対し、松下さんは姫路へ引返して行つたので、久能は穎子に「どこの人や」と聞くと、穎子は知らぬと答え、又「どこへ勤めている人や」と聞くと「そんなこと言う必要あらへん」と答えたので、久能は腹が立ち「今日限りこんな三角関係は一日もよう続けん、どつちかはつきりせん限りもう会わん」と言うと、穎子は「松下さんと別れたら結婚してくれるか」と言うので、久能は「そんな天びんかけるようなことを言うな」と責めると、穎子は「ほんまに結婚してくれるんやろうなあ」と言い、久能は「知らん」と言うと、穎子は「そんなこと言うやろうと思つとつた」と言い残して、その場から北の方へ走り去つたとなつている。この点に関する穎子の前掲供述と久能の右供述とを対比すると、その会合において二人の間に坂のことに関連して緊張した会話がとりかわされ、穎子は久能から激しい口調で坂との婚約をすみやかに解消すべきように強く迫られ、久能の言葉によつて精神的重圧を受け、坂の問題を早急に解決しなければならない窮地に立たされたことが、うかがわれる。(チ)以上の諸点を照合しながら、五月二二日の昼久能と別れて走つて会社に帰り、その日の午後会社の事務所の金庫の下から青酸カリを持ち出しオブラートを買つたという穎子の供述について考察すると、穎子が同日午後オブラートを買つたことは、早川信雄の司法巡査に対する供述調書によつて明らかであるが、右のように青酸カリを持ち出したのは、同日の昼休みの時間に久能から青酸カリがあるだろうとか、青酸カリを持ち出せとか言われたことに因るという点は容易にこれを信用することができない。

以上検討したところを総合して考察すると、穎子が以前に久能ととりかわした会話中に青酸カリを飲むと死ぬということが出たことがあり、前記のように五月二一日の昼休み時間中に久能から坂との婚約を早く解消しようとしないことを激しく責められ、その問題を早急に解決しなければならない窮地に追い詰められて、これを脱するために窮余、右会話から暗示を受けて青酸カリを飲まして坂を殺す決意をし、更にその実行に当り久能からかつて飲んできく避妊薬のあることを聞いたことを思い出して、青酸カリを避妊薬と称して坂に与えたことを推認するに難くはなく、従つて穎子が本件犯行をあえてしたのは久能から前記五月二二日昼「青酸カリを持ち出せ、今晩又会おう」と言われ、更に同夜「青酸カリをウイスキーに混ぜて坂に飲まして同人を殺せ、殺したら荷物を全部持つて帰れ」という教示を受けて、その教示に従つたためであるという趣旨の穎子の供述は信用力が薄弱で、久能の有罪を証明するのに十分な証拠とはなし難く、原審が久能を無罪にしたのは正当であり、記録を精査してもそれが誤りであるとするに足りる資料は見出せない。論旨は理由がない。

検察官の控訴趣意乙(穎子に対する事実誤認並びに量刑不当)について。

穎子の司法警察員及び検察官に対する各供述調書、甲斐照子、上条光子、富山春子、野村寿子、岡元幸子の各検察官に対する供述調書、坪倉ミツエ、福本久吉、野中栄吉、臼井千代子、中本トミノの各司法巡査に対する供述調書、幸田徳次、中村美智子の各司法警察員に対する供述調書並びに昭和二九年六月六日付司法巡査池浦通の捜査復命書を総合すると、穎子は本件犯行当日朝、前日用意したオブラート二箱と封筒入り青酸カリのかたまり二個とを手提鞄に入れこれを持つて家を出て、約束どおり国鉄姫路駅で婚約者坂勝見と落ち合い汽車で大阪へ向つたこと、穎子が以前坂に買つてもらつて同人に預けておいた白皮靴を坂が持つて来てくれたので、穎子は汽車の中でそれまではいていた白ビニール靴とはきかえ、白ビニール靴を風呂敷に包んで持つて行つたこと、大阪へ着いてから大劇へ行くつもりで地下鉄で心斎橋筋へ出て、途中買物をしたり食事をしたりして後午前一一時頃休憩のため大阪市南区河原町二丁目一五〇〇番地のオリオンホテルに一緒に入り、二階第七号室に案内され、穎子が便所へ行つている間に坂が寝巻に着かえ、その勧めによつて穎子も寝巻に着かえてから、途中で買つた菓子やすしを一緒に食べ、坂がこれも途中で買つたウイスキーびんをあけて飲み、坂の求めにより同人と並んでベツトに横になると、坂は穎子に関係を迫つてきたので、穎子はそのとき「ちよつと待つて、結婚するまでに赤ちやんができると困るから」と言つて、ベツドを出て同室内の洋服だんすの中に入れておいた手提鞄の中からオブラート二箱と青酸カリ入りの封筒を取り出し、封筒の中から小指半分位の青酸カリのかたまりを出し、それを一箱分のオブラートの上にのせてテーブルの上に置き、横になつている坂に対し服用することを勧め、テーブルの上でそのかたまりを二つに割り、オブラート二、三枚でその一つづつを包み、その二包と茶をついだ茶碗を坂に渡すと、坂はベットの上でその二包を茶湯で飲むなり苦しみ出したので、穎子は恐ろしくなつて室を飛び出し、便所に入つて約一〇分位してから帰つてみると坂はもう動かなくなつていたこと、穎子は洋服に着かえ、洋服たんすに入れておいた坂のボストンバツク、手提鞄及び洋服を出し、室内においたものをかき集め皆ボストンバツクに入れ、坂の洋服と自分の手提鞄とを風呂敷に包み、それを持つて階下に降り女中に対し「ちよつと外出する」と言つて、ホテルの外へ出て付近の荷物預り所にその風呂敷包を預け、再びホテルに引返しもとの室に入つてから、車中ではきかえた白皮靴を持つて帰ろうと考えたので、白ビニール靴を持つて玄関へ降り、女中に下駄箱に入れてあつた白皮靴と白ビニール靴とをとりかえてもらい、室にもどりかけて、坂から同人の靴があつらえ品であると聞いたことを思い出し、又もや玄関へ降りて女中に対し「部屋でみがくから」と言つて坂の靴を渡してもらい、室内でその靴についていた製作店名をあらわした布の小片をむしりとつて玄関まで持つて行き、その靴を自ら下駄箱に入れ、更に室内から坂のボストンバツクと手提鞄とを出して持ち外から同室のかぎをかけ、午後一時二〇分頃帳場の係り女中に対し「ちよつと出て来ます。七時頃帰りますが、もし女の人が尋ねて来たら二階へ言つてあげて下さい」と言い、名前を聞かれて「吉田といいます」と答えて同ホテルを立ち去つたこと、ホテルを出てから預り所で預けた風呂敷包を受け取り、タクシーで宝塚へ行き、同所の写真屋で「京都へ帰るのに旅費が足りないから」と言つて、坂の手提鞄の中に入つていた写真機を担保に金三〇〇〇円を借り受けて後宝塚大劇場に入り、同劇場内の各所の便所の中へ坂のボストンバツクと手提鞄に入つていた物を捨て、同劇場を出て付近で家族への土産に菓子類を買求め、国鉄宝塚駅前公衆便所の中へ坂のボストンバツグと手提鞄とを捨てたこと、穎子が坂を殺害した後坂の靴の布片をむしりとり、ボストンバツグ等を持ち去つたのは、坂の身元を隠す意図によること、及び宝塚へ行つたのはボストンバツク等を処分するためと、家族に対し坂と宝塚へ遊びに行つたように思わせるためであつたことが認められる。そして更に穎子及び久能の司法警察員及び検察官に対する各供述調書に、原審における今井英文、坂井しめ、小西巖、柳川正、後藤茂、大川岬男、川野天詳、清水周一、相馬みさをに対する各証人尋問調書、原審第一〇回公判調書中証人相馬みさをの供述記載部分、坂井しめの司法巡査に対する昭和二九年六月一〇日付供述調書、今井英文の司法警察員及び検察官に対する各供述調書、姫路測候所長の天候状況調査依頼に対する回答書(記録二二六丁)同所長の気象照会に対する各回答書(記録二三三〇丁及び二三八八丁)、押収されている川野天詳作成のメモ(昭和三二年領置第二六五号の八二)清水周一宛内容証明郵便及びその配達証明書(同号の八五及び八六)やまとやしき友の会会員証二通、同会費入金日報、同会費集金票(同号の八九、九〇、九七及び一〇三)を総合すると、穎子は久能を深く愛し同人との結婚を望んでいたが、穎子の両親や久能の兄姉らがこれを容易に許さず、久能の態度もにえきらないままに、穎子は母親の勧めにより坂勝見と婚約を結んで同人と交際をしているうち、昭和二九年五月二〇日姫路市内の喫茶店で三者が偶然顔を合わしたことから、久能から坂との婚約を直ちに解消すべきことを迫られ、翌二一日勤先の昼休み時間中に同市高尾町六二七番地付近の細い路で久能と会つた際、同人から自己の態度を難詰され、すみやかに坂との問題を解決すべきよう激しく追求された結果、久能と結婚するには坂をなき者にする外はないと考えるようになり、久能と以前かわした話の中に出て来た話題から暗示を受け(翌二二日頃)自己の会社の事務室の金庫の下から青酸カリのかたまりを持ち出し且つオブラートを買求め、翌二三日坂と大阪へ遊びに行く約束になつていたので、その機会を利用し、青酸カリをオブラートに包んで坂に渡して飲用させる目的で、当日朝これらを携えて家を出たのであることが明らかであるとともに、この点に関する穎子の供述中久能と会つたのは同月二二日昼夜の二回であつて、その昼に久能から「明日坂と大阪へ行つたときに話をつけよ、話がつかなかつたら青酸カリがあるではないか、今日青酸カリを持ち出せ、今晩会う」と言われ、同夜更に青酸カリをウイスキーに混ぜて飲ませるのがよい、殺したら荷物はわからぬように持つて帰れ」と言われ、その言に従つて本件犯行を実行したという部分は信用することができないことは、検察官の控訴趣意甲に対する判断において詳述したとおりである。

ところで穎子が本件犯行当時月経中であつたことは同人の供述によつてうかゞわれるが、前記認定の事実に鑑定人医師長山泰政の鑑定書の記載を総合すると、穎子の月経は正常であり、月経の心身に及ぼす影響は一般通常人と同等で特に異常というべきものはなく、犯行に先立ち前記のように久能から坂との問題を早急に解決しなければならない窮地に追い詰められたことから心身ともにつかれ感情動揺し思慮の適正を失い易い精神状態にあつたことは否めないけれども、上記によつて明らかなとおり犯行当日、ことにホテル内における坂殺害前後の行動は沈着冷静且つ計画的であつて、一時の興奮にかられて前後の思慮を失つた上の行動と見ることはできず、本件犯行時穎子に病的原因に基く精神障害もなかつたことが認められ、従つて穎子が当時法律上の責任能力を阻却又は軽減されるべき精神状態にあつたものと認めることはできない。しかるに原判決が穎子が本件犯行当時心神耗弱の状況にあつたものとしたのは証拠に対する判断を誤り事実を誤認したもので、この限りは判決に影響を及ぼすことは明らかであり、このことはいきおい法令適用の誤を来たし且つ原審の量刑の当否にも影響し、原判決はこの点において破棄を免れない。論旨は理由がある。

被告人坂井穎子の弁護人奥田福敏の控訴趣意について。

穎子が昭和二九年五月二三日原判示オリオンホテルの一室で、坂勝見に避妊薬と称してオブラートに包んだ青酸カリのかたまりを与えて飲ませ、同人を殺害したことは所論においても争わない明白な事実であるが、その犯行は穎子がその前日である五月二二日の昼夜二回に久能から教唆されたことによるのであるということは必ずしも所論のとおり明々白々ではないのである。穎子の右犯行がその単独の意思によるものであるか又は久能の教唆によるものであるかの点及びこれに関連する事実に関する穎子の供述は警察の取調以来一貫性を欠き徐々に変遷し、細部の点において前後くい違い、しかも明らかに虚構と認められる部分を含んでおつて信用性が乏しく、穎子が本件犯行前最後に久能と会つたのは同月二一日の昼であり、同月二二日の昼でも夜でもなかつたことが証拠上明らかに認められ、従つて同日の昼夜二回久能と会い、同人から坂を殺害すべきことを教唆され、その方法について教示を受けたという穎子の供述は信用し難く、その他穎子が右教唆を受けたという事実を証明するに足りる資料はなく、本件犯行は穎子が右五月二一日の昼久能から、坂との婚約をすみやかに解消すべきことを激しく要求され、その問題を早急に解決しなければならない窮地に追いつめられた結果、先に久能と会話した際の話題から暗示を受け、青酸カリを坂に飲まして同人を殺害すべきことを思いつき、ついに単独でこれを決行したのであると認める外ないことは、前記検察官の控訴趣旨に対する判断において詳細に説明したとおりであるからここにそれを引用するが、原判決が同一趣旨のもとに、本件を穎子の単独犯行と認めたのは正当である。そして原判決が所論のとおり、穎子が本件犯行前最後の昼に久能と会つたのは、五月二一日であるか、二二日であるか断定することができないとしたのは、事実誤認の非難を免れないが、この誤りは判決に影響を及ぼすものではない。又穎子が坂とかつて肉体関係を結んだことがあるかの問題(原判決はその事実があつたとしているが、当審は穎子の供述の変遷性にかんがみ、坂とかつて肉体関係を結んだことあるとの穎子の供述は信用し得ないものと考える)は罪となるべき事実には属しないから所論の事実誤認の論旨の対象とすることはできないし、その他本件犯行が久能の教唆に基くものであることを前提とする各論点はいずれも弁護人の独自の見解で採用しうる限りではない。次に又原審が穎子の犯行は発作的に貞操防衛の本能に動かされ、且つ心神喪失中の行為であるという弁護人の主張を排斥したのは正当であり、犯行当時における穎子の精神状態については、検察官の控訴趣意に対する判断において示すとおりである。論旨は理由がない。

以上の理由により被告人坂井穎子の本件控訴及び検察官の控訴中被告人今井久能に関する部分は理由がないから刑事訴訟法第三九六条によつてこれを棄却すべく、検察官の控訴中被告人坂井穎子に関する部分は理由があるので、同法第三九七条、第三八二条、第四〇〇条但書により原判決中同被告人に関する部分を破棄し更に裁判をする。

(罪となるべき事実)

被告人坂井穎子はかねてから相被告人今井久能と恋愛関係にあつて同人を深く愛し同人との結婚を望んでいたが、昭和二九年二月頃姙娠したことを知つて久能にこのことを告げ、双方の家族にこれを秘し久能の世話によつて姫路市内の婦人科医院において妊娠中絶の手術を受けたところ、ついにこの事実が双方の家族に知れて結婚に反対され、被告人穎子は母の勧めにより知人を介して結婚を申込んできた坂勝見と婚約を結んだ後も、なお久能と交際を続けているうち、同年五月二〇日姫路市内のきくや喫茶店で三者が偶然顔を合わしたため、被告人穎子は久能からその日直ちに坂に対し婚約の解消を宣言すべきことを要求され、翌二一日午後〇時一五分過ぎ頃同市高尾町六二七番地先付近路上で久能と会合した際久能から坂との折衝の結果を問いただされて、まだ坂から婚約解消の了解を得るに至つていない旨を答えたため、久能から激しくその無責任を難詰され、すみやかに坂との問題を解決するよう迫られ、久能の愛を保ち同人との結婚をから得るには早急に坂との関係を清算しなければならない窮地に追いつめられた結果、たまたま坂と同月二三日大阪方面へ一緒に遊びに行く約束になつていたのでこの機会を利用し、以前久能とかわした会話中に出た話題から暗示を得て、坂に青酸カリを服用させて同人を亡き者にする外ないと考えるに至り、同月二二日午後自己の勤務先の会社事務室内の金庫の下のびんの中から青酸カリのかたまり二個を取り出し、付近の薬局でオブラート二箱を買い、翌二三日これを携えて坂とともに大阪市内に行き、同市南区河原町二丁目一五〇〇番地オリオンホテル二階七号室において、坂とともに寝巻に着かえた後、坂から肉体関係を要求されて、とつさに右青酸カリを避姙薬と称して同人に服用させることを思いつき「結婚する前に赤ちやんができると困るから」と言つて、同人に対し携えて行つた青酸カリの一塊を二個に割り、その各一個をオブラート二、三枚で包んで二包みとして手渡し茶碗に茶湯をついで与え、同人に右二包みを茶湯をもつて服用させて、右青酸カリの中毒により同人を即死するに至らしめたものであつて、被告人穎子の右犯行が同人の貞操を防衛するために已むを得ないものであつたと認める余地は少しもなく、又右犯行時その精神状態は刑事責任能力を阻却又は軽減すべき程度のものではなかつたことが明らかであるから、被告人穎子及び弁護人のその旨の主張は採用し得る限りではない。

(証拠の標目)〈省略〉

(情状)

穎子は久能との恋愛関係から姙娠するに至り、久能を愛し同人との結婚を望んでいたのに、久能はその間責任ある態度を示さず、同人に穎子の貞操をもてあそんだともいえる軽薄さがあつたために、久能に対する愛を貫くことができず、坂と婚約を結ぶ外なかつたこと、そして久能から坂との婚約を早急に解消すべきことを激しく要求され、久能の愛を保ち同人との結婚をかち得ようとするの余り、若年にして思考力が薄弱のため思慮の適正を失い、ついに本件重罪を犯すにに至つたことについては、同情の念を禁じ得ないが、客観的に見れば貴重な坂の一命を奪わなければならないほどの事態の切迫性を認めることができないのである。しかるにあえて坂を殺害したのは、穎子の内面にひそむ悪性のさせた業であるとみる外はない。これらの事情に加えて穎子が犯行当時月経中であつたことを考え合わせ、穎子に対し主文掲記の刑を科するのを相当と考える。

(裁判官 万歳規矩楼 武田清好 小川武夫)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例